少子高齢社会においても医療の持続可能性を高めるための医師のオンコール待機の取り扱いの明確化
植野 剛 | |
PROFILE 京都大学医学部医学科卒。心臓血管外科医師として、倉敷中央病院及び兵庫県立尼崎総合医療センターで診療、学術・研究、教育に没頭。同時に、医療情報面や臨床運用面における改善活動を通じ、医療の安全・質の向上、臨床業務の効率化、病院の収益率向上にも寄与。そのような中、臨床現場における数々の非効率性や医療制度上の問題等への課題感が増大。それら課題に対処すべく、①ヘルステック企業で医療機器・DX を含むソリューションにより直接的に、②Policy makers lab で政策立案・発信により制度面から、③NPO CALS Japan Working Group 代表として心臓血管外科術後患者に特化した心肺蘇生プロトコール(CALS)の日本への導入・普及により、日本の医療の安全・質・効率・持続可能性の更なる向上を通じ、医師の本分である「公衆衛生の向上及び増進への寄与」「国民の健康な生活の確保」に取り組んでいる。 |
いま起こっていること
バブル期の好景気の裏に潜む「過労死」、バブル崩壊と大幅な人員削減による更なる過重労働を背景とした自殺に対する労災認定、日本の労働生産性の低さ等、1990年代から日本の「働き方」が孕む重大な問題が認知され始めました。1992年の「時短推進法」制定、2006年の「労働時間等の設定の改善に関する特別措置法」への改正、2014年の「過労死等防止対策推進法」制定、2016年の「女性活躍推進法」制定と「一億総活躍社会」の提言、2017年の「人生100年構想会議」「働き方改革実行計画」の策定を経て、2019年4月からの働き方改革関連法の施行に至りました。
医師以外の他の業種においては、これら「働き方改革」は一定の効果をもたらしているという分析もありますが、「医業に従事する医師」における時間外労働の上限規制については、長時間労働の背景に業務の特性や慣行上の課題があることから、他のいくつかの事業・業務とともに5年間の適用猶予期間が設けられ、さらには種々の特例付きで2024年4月からの適用開始となりました。ところが、国民・患者の健康・生命に関わる業務であることに起因する国民・患者・医療従事者・医師たち自身の意識改革の進みにくさを背景に、準備期間としての5年間の適用猶予期間中にも目に見える進捗は得られず、2024年4月以降も「自己研鑽」という名の下の「隠れ残業」「サービス残業」が更に増加し、「勤務時間は変わらずに給与が減少しただけ」という、本来の目的の達成とは乖離した状況が見られます。
このように「業務の特性や慣行上の課題」が大きい医師については、他業種・他職種と一括りでの「働き方改革」の実行は難しく、その特殊性に配慮した対応が必要です。そうすることで医師の過労死・過重労働を背景とした自殺・「燃え尽き症候群」・離職等を予防することは、国民・患者の健康・生命を支える国家のインフラとも言える医療の持続可能性の担保・向上には不可欠です。
すでに政府が取り組んでいること
さて、前項でも述べたとおり、医師についてはその特殊性から時間外労働の上限規制は他業種よりも5年遅れての2024年4月より適用開始となりましたが、その内容にも数々の特例が設けられています。そもそも、他の職種・業種では、時間外労働の上限は年360時間(臨時的な特別の事情があって労使が合意する場合でも年720時間)ですが、医師においては年960時間(一般的に「過労死ライン」と呼ばれる月80時間の時間外労働が年間を通じて継続している状態)となります。さらに、医療機関が所在する地域の医療提供体制を確保するため(B 水準)や、医療機関が医師の派遣を通じてその地域の医療提供体制を確保するため(連携 B 水準)、もしくは技能の修得・向上を集中的に行わせるため(C-1・C-2 水準)であれば、都道府県が地域の医療提供体制に照らし、各医療機関の労務管理体制を確認した上で医療機関の指定を行うことで、その上限を年1860時間(一般的な「過労死ライン」の“ほぼ2倍”の時間外労働を年間を通じての継続している状態)とする枠組みが設けられています。
目指すべき未来の姿
そもそも、全ての職種の中で、一般的な「過労死ライン」のほぼ2倍の時間外労働が年間を通じて続くことが法律上も許容されるのは、医師のみです。また前述の通り、手術等の手技向上に向けたトレーニング等も「自己研鑽」という名のもとに労働時間としては計上されません。さらに、医師には、「オンコール待機」といって、救急患者や緊急手術、入院患者の急変時等に、勤務時間外に院外にいても電話等により連絡を受け、可及的速やかに病院に駆け付け診療業務を開始できるよう待機する、という勤務の仕方があり、これは言わば「自宅における宿日直」にも該当することから「宅直」とも呼称されます。この「宿直」の時間は、時間的・距離的・精神的な拘束を受けますが、多くの場合その待機状態は勤務・労働として扱われず、手当や給与の支給も無く、拘束の回数・頻度・時間数についての制限や上限規制も存在しません。
いくら医師の職務には「特殊性」があるとは言え、これまで述べてきたような問題を現状のまま放置することは、医師の「燃え尽き症候群」や「立ち去り型サボタージュ」の一因となり、これがさらに現場に残された医師の過重労働を悪化させ、ひいては日本の医療提供体制の根幹を揺るがし、良質かつ適切な医療のサステナビリティ(持続可能性)を大きく損なうことに繋がります。これにより最終的に不利益を被るのは医療の受け手たる国民・患者であり、決して看過できません。本項目では、これらの問題のうち特にこれまで最も政策の議論から取り残されて来た、医師の「オンコール待機」について取り上げます。
2050年に向けた定性目標としては、医師の「オンコール待機」の法令上の取り扱いの明確化を行うことで、医師の時間的・距離的・精神的な負担を少しでも軽減し、医療の持続可能性の向上に資することとします。また定量的な目標としては、2050年には、現状のように手当や給与の支給も無く、また拘束の回数・頻度・時間数についての制限や上限規制も存在しないような「オンコール待機」がゼロになっていることとします。
未来のために何をすべきか
政策案① | オンコール待機にフォーカスした実態調査による情報収集と、調査データの分析結果の周知・活用を含む情報提供 |
【情報収集】
これまでのところオンコール待機にフォーカスを絞った実態調査は行われた実績がなく、議論の開始点となるデータそのものが存在しません。そこでまずは実態調査を行い、我が国における医師のオンコール待機の現状を、可能であれば地域・診療科・医療機関ごとの差まで分析可能な形で収集します。
【情報提供】
次に、調査で得られたデータの分析を行い、厚生労働省の検討会等においても提示し、議論の出発点として活用します。また、検討会の中のみならず広く結果を周知することにより、関係するステークホルダー全てを巻き込んだ活発な議論を惹起します。周知の対象にはもちろん、現場で半ば諦めのような感情を抱きながら過重労働を続けている勤務医も含まれるべきです。
現在、国民や患者は、医師の働き方が前述のような問題を孕んでいることをそもそもほとんど知りません。また、医師は医師で「現在の働き方はやはりどこかおかしいと実感してはいるが、声を挙げるほどの時間的・精神的余裕は到底なく、その改善に向けた議論もどこか遠い所で行われている印象で、自分達は引き続き現場で我慢して体カ・気力の続く限り頑張るしかない」という思考に陥りがちです。前述した情報収集・提供を通じて、国民・患者側と医師側の双方が「医師個々の問題ではなく、我が国において良質かつ適切な医療を効率的かつ持続的に提供可能な体制を確保する為に、あるべき姿に向かって少しずつでも歩み続ける必要がある」ということを理解するよう世論形成を行う必要があります。そして「問題(世論)の窓」を開くことにより、財源確保に繋げる必要があります。これら情報収集を2026年度中までには、情報提供・周知をそこから数年程度で行い世論を形成し、遅くとも2030年には次の政策ステップに進む必要があると考えます。
政策案② | 医療機関内での意識改革と人材育成、各種補助金・助成金の要件への盛り込み、オンコール待機の法規整備 |
情報収集・提供のフェーズ、及びそれにより惹起される議論を経て、オンコール待機の実態や問題点を理解し、医療機関内での意識改革や実効的な改善に向けたアクションを実行可能な人材を育成すること、そして医療機関にそうした人材を配置する一定程度の義務及びインセンティブを設定します。具体的には、医療機関を対象とした各種補助金・助成金の交付要件等にオンコール待機への適切な対処を盛り込むこと、また最終的にはオンコール待機の扱いを明確化する法律・規制へと繋げていきます。
前ステップである情報収集・提供を経て医師のオンコール待機の現状とあるべき姿の定義を行い、そのギャップを埋める方策を立案した後、医療機関内での意識改革を含む実行・実装を担う人材を医療機関にしっかりと配置させる制度整備を行います。具体的には、例えば企業などにおける社外取締役のような形で医療機関の人事マネジメントに取り組むポジションを設定し、人材配置することを努力義務化します。それに伴い、適切な人材を紹介できるようにすること、また人材育成を2030年には開始します。
また、育成した人材の医療機関への配置が適切に進むよう、医療機関を対象とした各種補助金・助成金の交付要件等にそれらの内容を2035年までに盛り込みます。これらの言わば「地ならし」を丁寧に行った上で、医療機関にとって「サプライズ」とならぬよう、2040年までにはオンコール待機に関する法律・規制の整備を終え、2050年の時点では、現状のように手当や給与の支給も無く、また拘束の回数・頻度・時間数についての制限や上限規制も存在しないような「オンコール待機」がゼロになっている状態を達成します。